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人間の揺らぎを描く作家、「かっこよさ」を論じる ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー①

人間の揺らぎを描く作家、「かっこよさ」を論じる ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー①

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人間の揺らぎを描く作家

仕事をしているときの自分、地元に帰って古い友達に会うときの自分、オタ活に励むときの、恋人を探すときの……様々な場面での自分の違いを、際立って意識させられた経験があるだろうか。複数の自分のギャップに悩むほどではなかったとしても、英語を話すときと日本語を話すときではテンションが違うという体験をした人なら多いかもしれない。どんなタイミングであれ、「自分の中の違う自分」を意識させられたことがある人は、平野啓一郎を読む準備が整っている。

平野は、デビュー作以来一貫して、人間について問うてきた作家だとみなすことができる。デビュー作の『日蝕』では、自分がよりどころとする価値観体系の全体が揺らぐ出来事が描かれ、新書『私とは何か』や小説『ドーン』では、いわゆる多元的自己論が展開されて、自己を確固たる一貫した揺らぎのない「個人」ではなくて、状況や他者に応じて多様な顔を見せうる多元的な「分人」として捉えることが提案された。

比較的新しい『ある男』という小説では、他の人になる/他者の生を生きるというダブル(分身)への欲望が扱われた。平野の著作は、自己を、首尾一貫して強固なものでなく、常に揺らいでいるものと捉える構想として読むことができる。自己の揺らぎに悩まされる読者にとって平野のストーリーは、癒しのような効果すら持つだろう。

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「かっこよさ」とは何か

この延長に、『「カッコいい」とは何か』という著作を置いたときに何が見えてくるだろうか。もしこれが《感覚》の問題なのだとすれば、どのような感覚が生じたとき、人は「かっこいい」という形容を用いるのかという言語習慣の分析が控えていると予期される。そして、もしこれが《スタイル》の問題なのだとすれば、様々な自己(=分人)を貫ぬく仕方で、「かっこよさ」が実践されるという議論が予測される。

実際、同書はこれらの論点を扱っている。前者に対応するのは、ビビッとくる体感(痺れるような感覚)をベースに、どんな方向性の趣味をも包含できる概念として「かっこよさ」を定義しようとする箇所である。後者については、適用範囲の広い「かっこいい」概念の実質は多様でありうるから、様々な自己を横断して「かっこよさ」が追求・実践されうるし、自分のある部分がそれを裏切るような「ダサさ」を持っていてもよいという構成の議論が展開される。

とはいえ、これら二つの関連する論点は、それほど明確に分けられて説明されているわけではなく、場当たり的な分析であるとの印象を拭えない。

『「カッコいい」とは何か』の問題点

他の例も挙げておこう。平野は、哲学者ヒュームの「趣味」をめぐる主張がエリート的だと批判している(87-8頁)。しかし、平野が提示する情報から、その解釈を導くことができないので、彼の説明は不足しているか、根拠がない(社会的に高位かつ少数の人物が「趣味の基準」を体現するとヒュームが主張したのだという情報を、読者に共有する必要がある)。

このように、読者が本文から直接読み取ることができず、自分なりに補助線を引いたり、調査・検討したりする必要が相当多い本だと思われる。

以下では、読者へのガイドとして、ここでは特に内容に関係する論点を二つ検討しておきたい。議論上の「視点」の問題と、「文脈」の問題である。なお、少し込み入った指摘なので、未読の方は、次のセクションを読み飛ばしてかまわない。

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「視点」と「文脈」の曖昧さ

まず、視点の問題。「かっこいい」という言葉を聞いて、読者は二つの視点を思い浮かべるだろう。「かっこよさ」を感じさせる側の視点(例えばウサイン・ボルト)と、「かっこよさ」を感じて模倣する側の視点(例えば陸上選手を目指す子ども)だ。

第一章で「再現可能性」概念を持ち出し、これらの視点をつなごうとしているものの、大体においてどちらの視点の話なのかが明示されないまま、話が進行している。基本的な視点の違いが曖昧に処理されていることに、私は問題を感じる。二つの視点をシステマティックに区別して各々を説明した上で、それらの関係を論じるなどの手順があって然るべきだった。

次に、文脈の問題。第二章では「かっこいい」という言葉が今日的な意味で流行するようになった経緯や時期が探求される。そこでは、特定の時代や日本語の語感を意識するような議論が展開される一方で、それとは時代や地域が違う議論(具体的には西洋哲学)が無思慮に援用される。さらに、同書の後半では、それらとも異なる19世紀のダンディズムや古代ギリシアの精神が扱われる。

要するに、時代や日本語という特異性を押し出しながら、それを時代や地域の異なる話題にぬるっと接続し、普遍化しているのだ。管見の限り、この雑多なコンテクストの関係に、整理ないし説明が与えられたわけではない。

生き方としての「美」?

これらの曖昧さから帰結するのは、「かっこよさ」の時代的・地域的特殊性を優先するのか、それとも普遍的な感性として論じるのか、あるいは、それらを両立させるのかといった理路の不明瞭さである。

第十章のまとめに即せば、「かっこいい」は、ロマン主義的な要素を持つ(近代的な)感覚で、ある種の普遍性を持つのだが、実際には文化に応じて多様な表現がなされる、という理路を本書は採用していると思われる。しかしこれでは「かっこよさ」が、ロマン主義的な背景を持つ、美的に優れたスタイルを指す広範な概念に過ぎないことになる。だとすると、本書は、「美」と呼ばれてきたものを「生き方」に注目してまとめ、「かっこいい」という語彙に置き換えた以上のものではなく、そう置き換える必然性が弱いように思われる。

著者の批判を差し戻す

本書の中には、「小難しい理屈ばかりの現代アート」や「お勉強の成果を並べ立てるだけの批評家の言葉」への苛立ちを表明する箇所がある(130頁)。彼らは「かっこよさ」の基盤となる、痺れるような生理的興奮を捉えられていないのだ、と。

それに対して、西欧と日本から様々な素材をピックアップした本書は、批判者に自身が与えた形容を超えられているだろうか。つまり、「小難しい理屈ばかり」ではなく、「お勉強の成果を並べ立てるだけ」でもなく、ビビッとくる感覚を捉えて、それを読者と共有可能な状態にできているだろうか。

私は疑わしいと考えている。皆さんはどう判断するだろうか。

平野啓一郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E

平野啓一郎『日蝕・一月物語』(新潮文庫 2011年)

https://www.amazon.co.jp/dp/B00NSE0IR0/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_EauuDbBZCH4RK

平野啓一郎『私とは何か:「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書 2012年)

https://www.amazon.co.jp/dp/B00APR9D7Y/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_gcuuDbY3ZSSY4

平野啓一郎『ドーン』 (講談社文庫 2012年)

https://www.amazon.co.jp/dp/B00APR9HCK/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_aduuDbEA7GGCA

平野啓一郎『ある男』(コルク 2018年)

https://www.amazon.co.jp/dp/B07H2T199F/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_SjCuDbHKBP1YR

デイヴィッド・ヒューム

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0

②に続く(2019/09/04公開予定)

美しいことは善いことなのか、善いことは美しいことなのか ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー②

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未来のノーベル賞受賞者を育てる好奇心を掻き立てるローレンス科学館(カリフォルニア州バークレー)

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