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単純な時間を生きる私たちは「受動性」を失ってしまった――ハイデガーの時間論(後編)

単純な時間を生きる私たちは「受動性」を失ってしまった――ハイデガーの時間論(後編)

自分を取り巻くものに出会い直すかのように

「過去に~した、だから今は~であり、どうせ将来は~だ」という素朴な因果的イメージに基づく時間を《通俗的時間》と呼んだ。しかし、その時間は、フォーカスを当てられない無数の《潜在的な過去》を忘れることで成り立っている。

だがそもそも、どれほど多様な過去があるとしても、私たちの時間は二つの極によって限界づけられている。その両極とは、始まり(誕生)と終わり(死)のことだ。これらをめぐるハイデガーの発想を語るとき、「瞬間(Augenblick)」――本来的に存在するときの現在のあり方――を語ることを避けられない。ごく直感的に言えば、将来の死の可能性を先取りし、誕生以来の(自分が直接選んでいないことも含む)過去を引き受けて生きることである。

ハイデガー自身の言葉を借りよう。

不思議なことに、将来に向かって行動するなかで、過去は生き返り、〔目先の〕現在は消えます。本来的に行動するのは将来から生きるひとびとです。そうしたひとびとは過去から生きることができ、現在はおのずと作られます。(『カッセル講演』平凡社102頁)

そうした現在(=「瞬間」)は、私たちを敏感にする。それまで支配的だった過去のピン留めを外し、自己を取り巻く人や物事に、初めて出会ったかのように新しく出会い直させる働きを持つのだ。

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「本来的に存在しよう、ウェーイ」?

ハイデガーは、『存在と時間』は倫理の書ではないと述べている。どう生きるべきかを語ったのでないとするなら、『存在と時間』の趣旨は、「本来的に存在しよう、ウェーイ!」と助言するではない。少なくとも、そのように読むことは実際に可能だ。

そもそも、私たちは日々の生活を送る上で、《通俗的時間》を逃れられるだろうか。会社のあり方も、教師が課す宿題も、むしろ《通俗的時間》を前提としている。

それなら、衝撃的な出来事を境に「生き方が変わった」と感じられ、「瞬間」のようなものを経験したとすればどうだろうか。その場合でも、時間を経るごとに衝撃が薄れ、ビビッドな感覚を失って、元の生活に似たところに落ち着いたりするだろう。私たちは、生活の中で一部の隙もなく、誕生と死を常に意識しながら生き“続け”られないのではないか。

本来性と非本来性を行き来する

「瞬間」を持続させ、常に本来的であり続けることは、人間のスペック上できないことのように(少なくとも私には)思われる。実際私たちは、長期的な視点をあまりに頻繁に失い、生活上の不安はたくさんあるのに、いつまでも自分だけは死なず、いつか誰かから生まれたことを忘れたみたいに過ごしている。大抵、私たちは非本来的に存在しているのだ。

むしろ、本来性と非本来性を行き来するものとしてハイデガー哲学を解釈することができる。つまり、《「瞬間」が周囲のものと出会い直させ、鮮やかな驚きを自己に与えてくれる一方で、自己は、絶えず通俗的な時間に戻って頽落してしまう、しかしまた「瞬間」が……》という行き来の可能性を織り込んだ時間論である。そのような立場から『存在と時間』を眺めると、そのプロジェクトの一つは、非本来性と本来性を行き来するという「時間」の構造を解明することだったと理解できる。

変容、あるいは不可逆な変化

「瞬間」がもたらす変化には、どんな特徴があるのだろうか。決定的な変化が起きても、時が経って慣れると、元に戻ったかのように感じるかもしれない。しかし、そのときにすら、すべてが万事同じ調子というわけではない。自己は、何か変質している。つまり、ある意味で、不可逆なのだ。

「瞬間」には、過去自体を変質させるような働きがある。1929年9月12日の手紙でハイデガーはこう記した。

概していえば、人間の過去は、ただの無ではなく、私たちが深みへと成長するとき私たちが繰り返しそこへ立ち返るものなのです。しかし、この回帰は、過ぎ去ったものの継承ではなく、変容にほかなりません。(H. D. ツィンマーマン『マルティンとフリッツ・ハイデガー』平凡社 一部表記変更)

過去こそが、物事をどのように捉えるのかを左右する。それゆえ、過去の変容は、これまでとは違う仕方で、物事と関わることを自己に促す。つまり、「瞬間」を境に、物事の見方が根本的に変わるかもしれないのだ。

ものの見方がガラッと変わる体験をした後、たとえその驚きが次第に薄らいだとしても、「今ある理解や想像が揺らぎうる」ことを自己は知っている。その自己はもはや、以前と同じではない。

「瞬間」を迎えるという“受動性”

加えて、「進んで目指せば、『瞬間』に至れる!」という素朴なアクティブさをハイデガーは否定している。むしろ、「瞬間」はふと訪れるので、人は、いつどんな仕方で来るともわからない「瞬間」を、ある意味で“受動的”に待つほかないのだ。

変わろうと決意するだけでは、大抵変われないにもかかわらず、自分でも予期しないタイミングでは、ちょっとしたきっかけで自分のあり方が決定的に変容してしまうことがある。これに類似したことを、哲学者の鶴見俊輔が「偶発性による教育」と呼んでいる(『教育再定義への試み』)。この「偶発」というニュアンスが示す通り、「瞬間」は、系統立てたカリキュラムとして用意し、教育プログラムに盛り込めるようなものではない。

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「驚き」に欠けた時代に

ハイデガーから離れて、「瞬間」をややカジュアルに捉えてみよう。彼の議論をそのまま教育プログラムにできなくとも、自分にとっての「瞬間」がいつかを想像し、その経験をどう解釈するかを考えてみるのはいいかもしれない。

ここでの「瞬間」は、過去に実際にあったことでも、未来にありうるかもしれないことでもかまわない。大切なのは、《潜在的な過去》のように自分が顧みないものに注意を向け、ありえた自己を想像し、ありうる自己を想像することだ。それによって、手頃な解釈で自分を捉えることに慣れてしまった自分自身を、ほんの少し揺らす可能性がある。

ここで「自己変容」に注目したのは、今日、それが簡単ではないからだ。サイバーカスケード、エコーチェンバー、フィルターバブル、行動データによる最適化――情報化と連動して提案されたこれらの概念は、現代が、予測不可能性や偶然性をますます遠ざけていると指摘する点で共通している。21世紀は、既知を反復し、信じたいことを信じ、予測不可能や偶然に直面せずに生きることがますます容易くなっていく時代なのだ。

要するに、私たちは基本的に非本来的に存在しているだけでなく、テクノロジーが、その状態で安住することを支援しており、そのことに私たちは居心地のよさを感じている。とすれば、自分を取り巻いているものに新しく出会い、改めて驚きを覚えることの重要性は、今日、一層高まっている。果たして、私たちは「瞬間」を待つだけの“受動性”を持つことができるだろうか。

謝辞 私のハイデガー理解は、従って、この記事の内容は、研究者の貫井隆さんに負っている。ここに記して心から感謝したい。

ハイデッガー『カッセル講演』平凡社ライブラリー

https://www.amazon.co.jp/dp/4582765963/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6dNCDbA3CGPVZ

ハンス・ディーター ツィンマーマン『マルティンとフリッツ・ハイデッガー:哲学とカーニヴァル』平凡社

https://www.amazon.co.jp/dp/4582703380/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_zENCDbZTRP14K

鶴見俊輔『教育再定義への試み』岩波現代文庫

https://www.amazon.co.jp/dp/4006031998/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_8FNCDb1QHVWHD

 サイバーカスケード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%89

エコーチェンバー現象

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E7%8F%BE%E8%B1%A1 

フィルターバブル

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB

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