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キャスタリア株式会社は“教育×ITで社会問題を解決する”をモットーに、 新たな学びを創出する企業です。

モバイルラーニングプラットフォーム「Goocus」を開発し企業や教育機関に提供しています。 また長野県を中心に教育事業を行う学校法人 信学会とともに、 日本初のプログラミング(コード)を必修科目とした広域通信制高校「コードアカデミー高等学校」の運営にも携わっています。

単純な時間を生きる私たちは「受動性」を失ってしまった――ハイデガーの時間論(前編)

単純な時間を生きる私たちは「受動性」を失ってしまった――ハイデガーの時間論(前編)

まず答えを出して、後から理解する

前回の記事「わからないことほど素晴らしい経験はない」では、実感を伴った理解が(情報あるいは体験に)後から追いつくという事象を扱った。紙幅の関係で述べられなかったことだが、そのことは私たちの学びの本質的なあり方なのかもしれない。

人間の脳のような並列的な情報処理を行うことができる機構では、何らかの経路で信号を伝達して何らかの解を出し、その結果に応じて、ニューロン結合の重みを変えることで、神経回路網の構造を自動的に変えていくことで、脳はいつのまにか情報をうまく処理できるようになる。大抵の場合、そうして熟達した後で、「問題の本質」なるものが意識される。

甘利俊一が言うように、「情報の処理法や情報の表現がまず学習によってできあがり、本質がわかるとしてもそれは後から」なのである(『新装版 神経回路網モデルとコネクショニズム』東京大学出版会114頁)。要するに、脳の情報処理自体が、何らかの信号、認識が遅れてくるという学びのあり方を暗示している。

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ハイデガーと時間

「遅れてくる」という言葉に重なるように、今回紹介する内容も「時間」に関わっている。時短、アンチエイジング、締め切り、貯金、有期雇用、将来構想ワーキンググループ、歴史問題――とかく様々な仕方で、私たちは「時間」に取り憑かれている。とはいえ、ここで取り扱う時間は、多少毛色が違う。

今回は、マルティン・ハイデガー(1889-1976)の『存在と時間』をベースに、彼の「時間」をめぐる議論を、思考の補助線として紹介しよう。さて、ハイデガーは、『存在と時間』(1927)で、「存在は時間に基づいて概念的に把握されるべき」だと述べている。存在が時間に規定されるという論点は、ハイデガー哲学を理解する上で避けて通れない。

以降は、この点を掘り下げていく。ただし、ハイデガー特有の用語をできるだけ避け、素朴な言い換えを用いている点に注意を促しておきたい。要するに、かなり直感的な紹介になっている。とはいえ、ちょっとしたランチを食べるとき正装しないように、詳細かつ厳密な解説は専門書の役割であり、ここには似合わない。

非本来的に存在する人間

ハイデガーは、人間の存在する仕方を「本来的」と「非本来的」に大別する。それぞれ、「その人にしかできない仕方で存在すること」と「そうでない仕方で存在すること」くらいのニュアンスで理解して構わない。

大抵の場合、人は、非本来的に――他人で代わりがきくような仕方で――存在している(いわゆる「コモディティ化」は、非本来性の典型だと言える)。このことは、「世間」を基準にした自己理解だとか、「頽落(たいらく)」していると表現されることもある。

この「頽落」という言葉を、素朴に道徳的な非難を意図したものだと捉えない方がよい(ハイデガーも「何ら消極的な評価を言い表すものではない」と注意が促している)。頽落は、単に人が避けられないものとして読むことができる。実際、彼が言うように、私たちは「本来的に自己存在しうることとしての自己自身から、さしあたって常に既に脱落してしまっている」からだ。

「頽落」の逃れがたさは、非本来的な存在の仕方が《通俗的時間》に性格づけられていることから来ている。《通俗的時間》とは、「成功者」のインタビュー、自己啓発本、落ち込んでいるとき、何かを計画するときなどに顔を出す時間感覚をイメージするとわかりやすい。

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特定の過去や未来を“ピン留め”する生き方

例えば、あるスポーツ選手がインタビューで小さい頃について質問されたなら、大体において「毎日練習していた」というようなスポーツに関連したエピソードを話すだろう。

そうしたやりとりをするとき、「毎日練習した」という過去が、スポーツ選手である現在に因果的な影響を及ぼすものとして、選手とインタビュアー両方に前景化している。それだけでなく、彼らは、(明日から別の仕事をするなどの想定をすることなく)プロとして選手が活躍し続ける未来を思い描いているはずだ。ここに示されているのが、「過去は~だったのだから、今は~だ、このままなら~になる」という《通俗的時間》だ。

もしその人が何か犯罪を起こしたとすれば、どうだろうか。高校時代の友人がインタビューされると、「そうえいえば……」と過去の悪事が思い出されたりするかもしれない。そうした過去は、犯罪を起こす前から変わらずあったにもかかわらず、世間(や本人)からは忘れられていた。しかし、罪を犯した現在と連動して、悪事の過去が目立つようになり、「悪事をしでかしてきたのだから、今回も犯罪に手を染めたのだ(そして、今後も恐らく反省しないだろう)」という、「世間」的な因果的解釈が作られていく。

ポジティブに捉えるときでも、ネガティブに捉えるときでも、私たちは、こうして因果的に積み上がる無批判的な(=ナイーブな)時間感覚で自己を捉え、それを他者に提示しているし、それと同じような仕方で、他者を捉えている。

今持っている想像や理解は揺らぎうる

上のスポーツ選手には、「毎日練習した」という過去も、「少し悪いことをした」という過去も、変わらずあった。それだけでなく、「高校時代に陶芸教室に通っていた」「数学が得意だった」のように、現在とは因果的につながらなさそうだという理由で、クローズアップされていない過去も無数にあったはずだ。

自分も意識を向けず、他者から向けられもしないような多様な過去を、誰もが無数に持っている(その多くは忘れられ、なかったことにされている)。それらは、これからクローズアップされ因果的な語りに上ってくる可能性を持つ点で、《潜在的な過去》と呼んでもよい。

札付きの不良が猫を助けるのを見たとき、「あいつ、昔うちに猫を見に来てたなぁ」と《潜在的な過去》を思い出すことがありうるように、現在支配的な解釈があり、それを支える過去のエピソードがあり、同様の未来がありありと想像されるからといって、その解釈が揺らがないわけではない。私たちが普段生きている時間は、無数の《潜在的な過去》を忘却して作られた白紙の上に、手っ取り早く引いた直線のようなものなのだ。

甘利俊一『神経回路網モデルとコネクショニズム』東京大学出版会

https://www.amazon.co.jp/dp/4130151614/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_YANCDbD2SQXXK

ハイデガー(ハイデッガー)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』〈上〉ちくま学芸文庫

https://www.amazon.co.jp/dp/4480081372/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_zCNCDbA7KSFV8 

コモディティ化

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E5%8C%96

後編に続く(2019/09/17 公開予定)

美しいことは善いことなのか、善いことは美しいことなのか ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー②

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