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美しいことは善いことなのか、善いことは美しいことなのか ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー②

美しいことは善いことなのか、善いことは美しいことなのか ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー②

美は悪用されうる

 興味深いことに、『「カッコいい」とは何か』において、平野啓一郎は美的感覚と倫理の問題を接続している。平野によると、「かっこよさ」は、動員や扇動、抑圧の手段として悪用されかねず、実際そのような歴史もあるので、その「かっこよさ」が私たちをどこに連れて行こうとしているのかを大局的に考えねばならない(419頁)。体制が民衆を動員したり、扇動したり、他の誰かを抑圧するために、美的な側面に訴えることは大いにありうる。倫理がなければ美的側面が暴走しかねないので、両者を結びつける必要がある、というわけだ。

 倫理と美学の関係については、掘り下げるべき様々な論点があるので、平野がこれらを結び合わせたことは注目に値する。ここでは彼とは異なる仕方で両者を論じた二人の思想家を対比項として置くことで、読者が思考を進めていくための補助線としたい。以下で紹介するのは、ミシェル・フーコーと鶴見俊輔である。

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倫理と美学のあわい

 そもそも、美学に対して倫理を“外付け”する必要はあるのだろうか。美学と倫理を一体のものとみなす立場もあるのではないだろうか。ミシェル・フーコーは、19世紀のダンディズムや古代ギリシアの自己研鑽の精神などに言及しながら、そのような方針を採用した。

 彼によると、自己を作品とみなし、それを発展させていく「自己への配慮」を重視する思想的系譜において、倫理と美学は、不可分のものとみなされている(フーコー「倫理の系譜学について」など)。こうしたアプローチは、自己教育による陶冶・完成を目指す点で、完成主義と呼ばれることもある。ただし、完成といっても、到達点が想定されているわけではない。

違和感とためらいの倫理

 自己の振る舞いを練り上げ、生き方を洗練させるという観点から本書を振り返ると、平野が紹介している岩倉具視使節団のエピソードが興味深く思い出される。使節団が海外を歴訪した際、最上級の正装として公家の衣服(衣冠や直垂)を身につけて行動する必要があったのだが、岩倉がうまく着こなし、立派に振舞ったのに対して、他の藩士が慣れない様子だったという。平野がこの逸話を紹介した後で、岩倉の自然な振る舞いを「かっこよさ」という美的感覚と結びつけている(153頁)。

 品位ある振る舞いの自然さを評価する平野のアプローチ(438頁)に対して、むしろ、振る舞いの自然さに違和感を見出し、振る舞いにためらいを埋め込もうとする立場もありうる。ここでは平野の対比項として、この方針を採り、それを倫理-美学の問題と紐づけた哲学者・鶴見俊輔の立場を紹介しておきたい。彼の倫理は、フーコー的な「自己への配慮」の系譜に並べうるものだ。

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身につけた「かっこよさ」に違和感を抱く

 鶴見が高く評価した吉田満の例を検討しよう。『戦艦大和ノ最期』で有名な作家である。彼は、海軍の美学をこう振り返る。

海軍の人間が好む言葉の一つに「シレッとして」というのがある。……キビキビとさり気ない風をいう。ここでも沈黙は大きな要素だ。多くを語りたい時こそ寡黙に、大事の際こそ万感をひめてただ「シレッと」行動するのである。(吉田「海軍という世界」)

 この美的感覚は海軍軍人だった吉田に深く刻まれたので、岩倉が公家服を着こなしたように、彼は自然体でシレッと振舞うことができた。

 シレッとしたスタイルは、敗戦後しばらくして吉田が大怪我を負った際にも発揮された。不慮の事故に遭って大けがをしても、吉田は笑みをたたえながら冷静に考えをまとめ、最後まで行動を貫徹しようとした。敗戦から時間が経っても海軍時代のように、大怪我で取り乱すことなく「これで務めを果たしたか」と自己抑制的に問う自分に、吉田は気味悪さを感じたという(吉田「病床断想」)。

 自分が自然なまでに身につけた美学に違和感を見出し、自分の中にためらいを埋め込もうとする吉田の姿勢を、鶴見は高く評価した。吉田の後に続き、日常の振る舞いに溶け込んだ感覚のあり方を読み解き、行為の自然さの中に違和感を見出すような美学と倫理の協調関係を構想すべきだと鶴見は示唆する(鶴見『戦後思想三話』)。

「胡散臭さを嗅ぎつける」という倫理

 では、なぜそれらを協調させ、違和感に目を向けるべきなのだろうか。それは、状況に流されるままになって、このスタイルがどこから来て、自分をどこに導いているのかと問いもしない事態を鶴見は避けようとしたからである。

 例えば、吉田満は、先にも見た小論「海軍という世界」において、海軍的な美学の自己陶酔的側面が、海軍と自分自身に、情勢に流される弱さをもたらしたと論じている。

海軍士官はシレッとした動作が身につくよう心がけた。しかし今度の戦争で、その開始から終局まで陸軍を中心とする無遠慮と蛮勇に海軍が押し切られる場面が多かったのは、シレッとし過ぎた結果ともいれるのではないか。いつの頃からか、ネーヴィーの伝統に一種のエリート意識、みずからの手を汚すことを潔しとせぬ貴族趣味が加わり、受け入れ難い相手とトコトンまで争わずに、自分の主張、確信だけを出して事を決着する正念場から身を引くという通弊が生れた。(吉田「海軍という世界」)

 この精神は、勝海舟のそれからみて随分後退していると指摘して、吉田は文章を結んでいる。

 美的感覚は、人を思わぬ方向に動かす可能性を秘めている。それは魅力であり、危うさでもある。吉田と鶴見から学び取ることができるのは、心訴えるスタイルを身につけてはならない、ということではない。吉田は、「かっこいい」と感じた振る舞いを自然なものとして身につけた上で、その「かっこよさ」の中に胡散臭さを嗅ぎつけ、「このスタイルはどこから来て、どこへ自分を連れて行ったのか」と問い、知性的にモニタリングした。彼らは、美学に倫理を外付けするのではなく、そうした反省的な自己完成のプロセスそのものを、美学-倫理とみなしたのである。

ミシェル・フーコー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC

ミシェル・フーコー「倫理の系譜学について:進行中の仕事の概要」『フーコー・コレクション〈5〉性・真理』(ちくま学芸文庫 2006年) 

https://www.amazon.co.jp/dp/4480089950/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_2huuDbNN8RZF2

鶴見俊輔

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E4%BF%8A%E8%BC%94

吉田満

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%BA%80


吉田満「海軍という世界」および「病床断想」『戦中派の死生観』(文春文庫 1984年)

https://www.amazon.co.jp/dp/B009HO4PY2/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_.xuuDbQRK6T73

鶴見俊輔『戦後思想三話』(ミネルヴァ書房 1981年)

https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7WR8C/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_DzuuDbJKPWF4M

参考:谷川嘉浩「作文はなぜ知的独立性の問題になるのか:鶴見俊輔、生活綴方、想像力」『人間・環境学』27巻

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/237348

鶴見の吉田満論を部分的に扱っている。

単純な時間を生きる私たちは「受動性」を失ってしまった――ハイデガーの時間論(前編)

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人間の揺らぎを描く作家、「かっこよさ」を論じる ――平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』レビュー①

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